「〇〇も△△も食べられないのかい。かわいそうだね」とばあちゃんに言われた時、息子は「おれはかわいそうじゃない!」と断言しました。
「その肌、どうしたの? ボロボロじゃん」と同じぐらいの年頃の子に言われた時は「別にいいでしょ」と返しました。
そのやりとりを見ていて、私は内心ハラハラしていました。
だけど、後になって「これでいいんだ! 息子、すごーい!」と納得しました。
今回はちょっとその辺を深掘りしてみますね。
かわいそう
「かわいそう」という言葉をかけられるのは、だいたい
「(給食など)みんなと同じものを食べられなくてかわいそう」
「食べたいものを食べられなくてかわいそう」
という食べ物関係のことが多いです。
ここにどんな前提があるか?
食べられる=幸せ
食べられない=不幸
のような図式があるのかなと思います。
食べることは生きることにも直結するからでしょうか。
テレビ番組も、グルメ番組や大食い、デカ盛り特集など、やったりしていますもんね。
だけど、嫌いなものだったら?
食べる=不幸
食べない=幸せ
と、ひっくり返りますよね。
先日、友人の子がトマトが嫌いでアレルギーと申告したがっている、というので「うちの息子はトマトもアレルギーだよ」と言ったら、その子に「仲間だー!」と言われました(笑)。
確かに、息子は大好きな食べ物だけどアレルギーのため控えているものもあります。
だけど、食べて痒くなるのは嫌だし、早くよくなりたいのです。
おいしい食べ物は、ほかにもたくさんあるんですよね。
例えば。
マルチアレルギーのおかげで、息子は漫画「クッキングパパ」を見ながら自分仕様にアレンジをしてウスターソースを作るようになりました。
市販のウスターソースしか知らない人が大半だと思うんですが、我が家は息子仕様のウスターソースを数か月に1回作るイベントがあります(笑)。
私主導ではなく、息子が「作りたい」と言って始まったんですよ。
こういうことが我が家ではよくあって。
それは悲しいことではなく、むしろ楽しいこと。
おいしいし、幸せなこと。
マルチアレルギーっ子でも、ありがたいことに「うまかったー!」と毎日満足してご飯を食べられています。
「食べられない」ことにフォーカスするか。
「食べられるものはあるし、工夫次第でもっと楽しめる」ことにフォーカスするか。
ばあちゃんは前者、息子は後者なので「おれはかわいそうじゃない!」という反応になったのだと思っています。
私は、マルチアレルギーのおかげで遊暮働学https://yuru-ato.com/yuubodougaku/できている感覚があって、この11年たくさん成長させてもらえたなぁと感謝しています。
どうしたの?
心配そうに声をかける子。
単純に疑問に思って聞いてくる子。
そして、ノータッチの子。
息子の周りには、いろいろな子がいます。
「どうしたの?」と声をかけてくる子に対し「別にいいでしょ」という息子の対応にハラハラしたのは、私の中に「心配してくれているんだから、説明したら分かってもらえるのに」という思いがあったからでした。
だけど。
「分かってもらえる」って何だろう。
分かってほしいのはアトピーのことじゃないな、と思いました。
目に見える肉体ではなく、本質というか。
息子自身ですね。
アトピーとかアレルギーとか、病院、幼稚園、学校などに説明する機会がどうしても多くなり、周りに理解を得なければと刷り込まれていたのは私だけで。
息子としては、自己紹介することがあればアトピーやアレルギーについて話すことはあっても、その子に聞かれたからといって肌について説明する必要性は感じなかったということかなと見えてきました。
自分で選んでいいんですよね。
肌のことで、その子に何か影響があるわけでもないですし、その子も、特に追及してきませんでしたし。
息子も、必要だなと思ったら話すんでしょう。
ちゃんと考えて行動しているんですよね。
私を守るため
ある日。
「おれはかわいそうじゃない!」も「別にいいでしょ」も、実は「私を守るため」だったんじゃないかと浮かびました。
「かわいそうだね」「肌ボロボロじゃん」と言われて、私が悲しまないように
「おれはかわいそうじゃない!」「別にいいでしょ」
そう思ったら、絶妙な返し過ぎて思わず涙が出てきました。
感動の涙を流した後に、息子が目の前にやってきて思わずハグしました。
「ありがとうね」
息子は勇者だ!と改めて思った瞬間です。
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