春、父に膀胱がんがあることが分かり、先日手術をしました。
そして今日、土砂降りの中、無事退院したとのこと。
病院はまだコロナ警戒中らしく、病室に入ることはできないとのことで、入院中はLINEでのやりとりのみ。
今回は半月足らずの入院でしたが、長期入院の方たちは切ないだろうな…。ただでさえ入院生活ってしんどいのに。
誰も悪くないんですけど。ただ、切ない。
今日は父の膀胱がん発覚から手術、退院に至るまでに発生した私のモヤモヤを見つめてみたいと思います。
意外と私がアトピーと闘っていた頃の思いも出てきたのが発見でした。
原因探し
父は子どもの頃は体が弱く、学校も休みがちだったそうで、”I am a boy.”の意味が分からなかったというエピソードを話してくれたことがあります。
体のために、鶏の首を切って生き血を飲まされたりした、という話も聞きましたが、その一方で、叱られて素っ裸で外に出されたとか、家の仕事の手伝いで重たいものを持たされたから背が伸びなかったとか、「本当に体が弱かったのか?」と疑念を抱くような話も聞くので真実は分かりません。見てないし。
ですが、私が知っている父は「健康診断はオールA」が自慢の健康体。
普段、エネルギー全開、効率重視で働きまわりますが、たまに風邪をひけば、スンと大人しくなって夜6時半にお布団に入るような分かりやすい人です。
そんな人が、突然血尿が出て、病院に行ってみたら「膀胱がん」と言われ、頭が真っ白に。
何が悪かったのか、とても気になったらしく、出会った医師に「昔吸っていたたばこのせいですか?」と聞いたりして、ひたすら原因を追求していたようです。
私も20代で耳下腺腫瘍ができたことがありますが、当時を思い出してみると、私は原因よりも「これは悪性なのか、良性なのか?」「どこを切るのか?」「入院期間はどのくらいか?」「入院時期はいつになるのか?」「術後どうなるのか?」「仕事、生活はどうなる?」といったことばかり考えていました。
なので、父の「何が悪かったんだろう?」への執着に違和感がありました。できちゃったものの原因を探したって、しょうがないじゃん。これからどうするか、どうしたいか、じゃないの?と。
今、こう書いてみて、ようやく分かった気がします。父なりに健康に気を使っていたからこそ「何が悪かったんだろう?」だったんですね。
私が腫瘍になった時よりも、息子のアトピーと闘っていた時の心境に近かったのかな、と想像しました。こんなにいろいろ気を付けているのに、何が痒みのもとなのか、赤みのもとなのか、と考えまくっていましたから。それが治癒への道だと思っていた。
そんな当時の私に対して、今の私が「原因探しをしたってしょうがないじゃん。これからどうするか、どうしたいかだよ」と思っていたようなものだったんだ。あぁ、なるほど。
情報、知識は選択して入れる
両親も両親なりに膀胱がんについて調べたようですが、「たばこが原因かもしれない」ということは分かっても、どんな治療をするかまでは把握しきれなかったようでした。専門用語も難しいし、分かりづらい。それで不安感が増していたようです。調べ方によって、出てくるものも変わってきますが、どう調べたらよいか分からなかったのかも。
私たちもいろいろと調べ、膀胱がんについて専門医の見解、比較的新しい知識を分かりやすく説明してくださっているYou tubeを夫が見つけてくれて、それを家族間で共有できました。私は医療には地域格差があると自分の手術の時に切実に感じたので、こういった知識が地方でも得られたのはとてもありがたかったです。きっと医療の地域格差は昔より小さくなっていますね。おかげで医師のお話を聴く前に、予習することができました。
また、抗がん剤治療、手術を避け、民間療法、自然療法、自費診療で治療を頑張っていらっしゃる方々のブログなども拝見し、こういう選択肢もあるんだなと知ることができたのもよかったです。「これしかない」というのは、時にしんどくなるので。
不安材料ではなく、安心材料の収集。
アトピーに関しても、不安、恐怖感をあおるような情報から、治癒に向かっていく経験の情報までいろいろあります。私は以前、知識はあるだけあった方がいいと思って、清濁併せ呑む気持ちで一通り読む気持ちでいましたが、だんだんつらくなってしまいました。中にはだいぶ攻撃的なものもあるので、ダメージが大きかったです。
今では、アトピー情報よりも、アトピーに対する自分の心の反応を観察しているので、そういった検索はしなくなりました。それでも情報はそれなりに、自然に入ってきます。
というか、情報収集をしていた頃には入ってこなかった情報が、最近は入るようになった気がしています。「このお米は堆肥に大豆が入っているよ」とか「甲状腺ホルモンが関わっているかも」とか。入る情報の質が変わってきましたね。不思議なんですけど、そういうものなのかもしれません。
まな板の上の鯉
父がこの数か月、何度も口にした言葉が「まな板の上の鯉」。私はこの言葉にめちゃくちゃモヤモヤしました。
私が耳下腺腫瘍を切ることにした時にも言われた言葉です。その時も嫌と言えば嫌だったのですが、今回、父自身が「まな板の上の鯉になるしかない」というのが、私の時以上に嫌だったんです。
何でこんなに嫌なんだろう?と考えていくと、私の「医師不信」かなぁ(失礼ですが、えらい目に遭った経験がありまして)と最初は思ったのですが、「まな板の上の鯉」に対するイメージが「他人に自分の人生を預け、なすすべがない」「無力」というように感じていたのかなと。
「自分でも、できることはあるはず!」と私は思っているのに、それを放棄してしまっているように聞こえて悲しみを感じたのかなと。
でも、その私のイメージは思い込みかもしれないと思ったのは、ある鶏さんとキツネのお話を聴いたからでした。
我が家にとって大切な場所である遊暮働学きらくる村で飼っている鶏さんで、今どき珍しく抱卵するような母性溢れる子が、キツネにくわえられ、連れ去られたという事件が、私のモヤモヤ真っ最中にありました。村の代表の方が、その時の様子を、現場にいなかった私たちの目にも浮かぶように、つぶさに伝えてくださった(涙なしには読めなかった)のですが、その時の鶏さんは無抵抗だった、というのです。
そのお話を聴いて、ふと「無抵抗」は「放棄」じゃないのかもしれない、と思いました。
どんな運命でも受け入れるという選択。宇宙の一部として、なくなることはないという達観。
それは「人任せ」ともちょっと違う気がして。
まだうまく言語化できないのだけれど、「まな板の上の鯉」も「放棄」ではないのでは?という視点を鶏さんに教えてもらいました。
そういえば、昔、夫はイワシのつみれを食べながら、イワシの思いが入ってきて、涙したという話をしてくれたことがありました。その時のイワシの思いも「放棄」ではなかった。
というか、そもそも、「放棄」をよからぬものとジャッジしていた私がいたわけですね。
でもジャッジしていたその奥底に、父への愛があったんだな。父により良い人生、幸せな人生を送ってほしいという。
だから、諦めてほしくなかった。
うん、ここまで書いて涙が出ました。心が反応してる。
もっと、掘れそうな気もするけれど。今日はここまで。