この記事を読んでくださった方から、メッセージをいただきました。ありがとうございます!
この記事の後半でゲームについて少し書いていました。
「私も、子どもにゲームなんかしてほしくないって思っています。いろいろ勝手に決めつけているのかなぁ」というご感想、そのお気持ち、よ――――――く分かります。
私も「ゲームなんか」と思っていました。何度破壊しようと思ったか…思いとどまりましたけど。
今日はそんな私が、ゲーム・動画に対する思いを変えたきっかけになった出来事がいくつかあったので書いてみようと思います。
我が家にゲームが来た経緯
まずは、批判もあるだろうなと思いつつ、我が家にゲームがやってきた経緯を思い切って書いてしまいます。
今でこそ、息子と2人で楽しく過ごせるようになった夫ですが、ゲームがやってくる以前はどうしたらいいか分からなかったようで、2人で公園に行ってもらっても15分後に私に電話がかかってくるレベルでした。
息子が幼稚園の時、アトピー再爆発もあり、ワンオペ育児に限界を感じた私は、何とか夫の協力を得たいと考えました。
夫はゲームが大好き。(と公に言うのは恥ずかしいらしいので、ここだけの話にしておいてください(笑))
当時は、車で10分ほどの実家に毎晩ゲームしに行くほどでした。
何で知ったのか、幼稚園児の息子が「ゲームしてみたい」と言ったのをきっかけに、軽い気持ちで夫のゲーム機を実家から持ってきてもらいました。
すると間もなく、「ファイナルファンタジーⅫ」が共通言語になり、私には分からない2人の世界がつくられ始めました。
文字オタクだった息子は、何となく漢字も読めていたので、分厚い攻略本をめくりながら熱心にゲームするようになりました。
父子のコミュニケーションが密になったのは嬉しいのだけど、すんなりやめられないのがもどかしく、私の中で「この選択をしてよかったんだろうか。間違いではなかったか」とめちゃくちゃ葛藤しました。
コントローラーさばき
それから間もなく、近所の商業施設で、高校生企画の科学系イベントがあり、買い物ついでに幼稚園児の息子と寄ってみました。
その中にパソコンとコントローラーをつなぎ、画面の中で好きなように宇宙を散歩できるというものがありました。
私が別のものを見ている間に、息子はそのコーナーに吸い寄せられていきました。
息子のもとに辿り着いた時には、既に自由自在にコントローラーを操っていて、傍らにいた高校生のお兄さんに「この子には、何も教えることがありません」と言われました。
私はコントローラーに全く興味がないけど、この子はこんなに大好きなんだなぁ…。直感的に操作できちゃうんだなぁ。
私と息子の違いを、はっきりと思い知りました。
ゲームは制限が必要?
学校に行かない選択をして数ヶ月経った小2の春、あるオンライン通信教育に出会いました。勉強は遊びのように楽しくできる!と生き物や歴史、漢字などさまざまなテーマに合わせた動画とカードゲームやボードゲームも送られてきました。「墾田永年私財法」とか「ヘリウム」とか、私の記憶のかなたになりつつある単語がカードになっているゲームです。子の学びって親の老化防止かもしれない(笑)。
そんな学びだけではなく、スタッフの皆さんと保護者で話ができるオンライン保護者会もありました。親も子も、スタッフさんとは「顔が見えるお付き合い」でした。
そこでは、さまざまな情報交換がされ、画面のあるゲームとの付き合い方についても、よく話題になりました。
ある時、スタッフさんの1人がこんなことを言ってくれました。
「ゲームしちゃダメなんですかね?」
「ぼく、ホントにゲームいっぱいやってたんですけど、母親に何も言われなかったんですよね~」
「成長して、アルバイトするようになって、うわ〜、ドラクエと同じだ〜!って思ったんですよ」
「ゲームしていても問題ないと思いますよ~」
あっけらかんと言われて、そのスタッフさんのお母さんに興味がわきました。
「〇〇さんのお母さんは、どうして何も言わなかったのか、分かります?」
すると「え〜、何でだろう? 聞いたことないから、分からないな。今度聞いてみますね」と、後日、教えていただきました。
そのスタッフさんのお母さんは、昔ベルギーに住んでいたことがあったそうです。その時に「親と子はそれぞれ別の人間、別の人生がある」という考えから、子どものすることに干渉しないご家庭を見てきたので、自分も親になったらそうしようと思った、とのこと。
なるほど、と思いました。
思いましたが、当時の私はまだ自分と息子を切り離して考えられず、「ゲームしていい」と「ゲームの弊害」の狭間で善悪をジャッジしようとしていました。
でも、あのスタッフさんの言葉のおかげで、ゲーム脳とか世間が言うほど心配しなくてもいいのかも、と安心が芽生え始めました。
ちなみにドラクエは人生に役立つというお話を、また最近聞きました。息子もきっと生かしてくれるに違いない。
戦略を考えるようになっていた
小4の時だったでしょうか、下水道科学館に行った時に、下水道管のメンテナンスのバーチャル体験をするゲームのようなものがありました。ひび割れの補修や汚れの除去など、スタート地点から目的地まで、どの道を進むか、何を優先させるか、確実に任務をこなすにはどう手元のレバーを操るか。時間制限もありますから、焦りも出るようなゲームです。
それでも初見で淡々と任務をこなしていく息子。私は操作のことは全く分からないけど、画面の中ではサクサクと作業が終わっていき、ランキングも1位。
びっくりしました。
それ以来、料理をするのでも、運動するのでも、生活全般も、息子なりに考えてやっているのが見えるようになりました。
この時もそう。当日まで通常モードだった息子が、実は内側ではいろいろと考えていて。しかも、私にはない発想だったんですよね。
ついつい一緒に最後まで見ちゃった
昨年か一昨年だと思うんですが、息子の大好きなユーチューバーさんのゲーム実況を一緒に見たことがありました。
私は基本的にゲーム実況には興味はありませんが、そのゲームには、自然と引き込まれたんです。息子に誘われたわけでもないのに。それが「Detroit: Become Human」。
アンドロイドが人間のもとで働く、未来の世界のお話。一部のアンドロイドが変異して感情・意思を持つようになって、自由を求めて活動したり、排除しようとする人間たちの攻撃から逃れて国境を越えるため危険を冒したり、逆に理解ある人間との深い絆を感じるシーンもあったり…
この後どうなっちゃうんだろう?(岐路に至るたびに選択肢を選んでいくゲームなので、進め方でストーリーも変わっちゃうんだけど)
この人たちはご無事でいられるのかしら?(人じゃなくてアンドロイドなんだけど)
ドキドキしながら、時には泣きそうになりながら、ゲーム実況を最初から最後まで見届けたのは初めてでした。
この時に、ゲームって映画みたいなストーリーがあるんだなぁと初めて認識しました。
オペラが総合芸術と称されるように、もしかしたらゲームもそうなんじゃないか。
キャラクターのデザイン、音楽、セリフ、ストーリー…現実と異なる文化と慣習の世界で、あらゆるキャラクターとコミュニケーションをとり、お金を稼ぎ、欲しいアイテムをゲットして世界を救うために冒険する。時には慎重に、時には大胆に。
所詮、バーチャルな世界じゃないか、という批判はあるかと思います。実際、息子はばあちゃんに言われています(笑)。
だけど、以前「ゲームしていても問題ないと思いますよ~」と言ってくれたスタッフさんのお話が、ここでようやく現実的に見えてきました。
私は今まで見ようともしていなかったけれど、ゲームって「所詮バーチャル」なものではないのかも。作り手の方のお話を聴いたことはないけれど、きっとその方の人生経験が元になって作られたものなんだよな、と思えてきたのです。
作家が本を書くように、画家が絵を描くように、ゲームもただの娯楽としてではなく思いを込めて作られて、やった人に伝わるメッセージがあるのではないか、と。
映画でスルスルッと観るのとは違って、岐路のたびに立ち止まって考える価値が「Detroit: Become Human」を見ていて分かりました。
そういえば、「三國志」をゲームでやって、実際の歴史を知りたいと漫画もむさぼるように読んでいた息子がこんなことを言いました。「歴史は読むより、自分でつくる方が面白いね」と。
多分、この辺りからです、私が「ゲームなんか」と言わなくなったのは。
どんなことが面白いと思っているのかな
そんなわけで、ゲームでも、動画でも「やっている時間」や「どんなものを見て(やって)いるか」に注目するのをやめました。自分でやめたいと思っている時はやめられる(と信じることにした)し、こちらがいちいちチェックしていると、心配のタネを大きく育ててしまうから。
代わりに「息子は今、どんなことを面白いと思っているのかな~」と思いながらチラ見するようになりました。見ても分からない時は、「それ、なぁに?」と聞くようになりました。
私がゲームや動画を嫌っていた頃は隠されていました。押し入れに入ることもありました。怒られると思ったんでしょうね。
が、今「息子の好きなように決めたらいい」というスタンスになってみたら、息子からいろいろと教えてくれるようになりました。
するとゲーム実況も見つつ、いつの間にか範囲を広げていて「今日は魚の三枚おろしの動画をめっちゃ見てたから、おれもやってみたい」とか「この人たちは北海道に住んでいて、これから北海道一周するんだよ」とか「淡路島で畑をもらって、仲間と一緒に自給自足するんだよ」と私が一緒に楽しめる世界に寄ってきてくれてました(笑)。
息子にとっては、動画もゲームも学び。
雨雲を見上げて「鈍色(にびいろ)の雲だね」と呟くような学びを、画面から得ています。
これまで、さんざん迷走してきましたが、今では、さまざまある中から自分で選んだ学びの道を、尊重しながら共に進むのもいいもんだな、と思っています。
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