今日、ご飯を食べながら11歳の息子が言いました。
「エリンギ、おいしいわ~。あのね、おれが子どもの時さ、エリンギは野菜だと思っていたんだよ」
「あぁ、キノコじゃなくて野菜と思ってたんだ」
「うん」
「子ども」「大人」という概念
息子は小学1年生の頃にも「おれが子どもの時」という文言を使っていたような気がします。
幼稚園で年長さんの時は、年少さんのことを「赤ちゃん」と言っていたので、息子の概念では年少、年中さんぐらいまでが子どもなのかな。
息子が「おれが子どもの時」というたびに「面白いな」と思いながら話を聴いていましたが、「子ども」「大人」という概念は、別に法律上のことでなくていいんですよね。
大人でも「心は子ども!」と「5歳児のように無邪気に!」と言っている人もいますし(*^^*)
大人でも知らないようなことを知っていたり、大人びたことを言う子どももいますよね。
肉体は子どもであっても、中身は人生経験豊富な大人なのかもしれません。
大人だけど、大人ぶらなくていい
「親だから」「お母さんだから」
我が子のために何かしてあげなければ。
何をしてあげるのがベストなんだろう。
そんなことを考え始めたら、子育て本は山ほどありますし、ネット検索すれば情報がわんさか出てきます。
ネットニュースでも出てきたりしますよね。
有名人がどんな育ち方をしたのか、みたいな。
そんなのを知って、ついつい自分と比べていたりしませんか?
私はそうでした。
だけど、今は一般によく言われる子育て論からは離れ、息子には息子の育ち方があるなと思うようになりました。
私は「私のまま」でいいんだ、と。
大人ぶって「いいお母さん」になろうとしなくていい。
大人と子どもは対等でいい
ドキュメンタリー映画「夢みる小学校」にも出てくる、きのくに子どもの村小学校では、週1回大人も小学1年生の子どもも対等に、一人1票の投票権のあるミーティングがあるんだそうです。
各地にあるサドベリースクールでも、子どもと大人は対等です。
息子が学校に行かない選択をしたおかげで、いろいろ調べていくうちに知ることができた世界。
親子も、先生と生徒も、縦の関係ではなく横の関係でいい。
そういえば息子の幼稚園の園長先生は「子どもたちはすごいんですよ!」といつもお話してくださるものでした。
離れたところで遊んで、こちらを見ていないように感じられても、子どもはちゃんと見ている。
子どもたちには、考える力も、判断する力、学ぶ力も既にある。
豊かな感性で、本質を見抜く力がある。
大人にはない発想で、問題を解決する力もある。
それを思い出すまでは「ゲームばっかりして」という目で見てしまっていたけれど(/ω\)
それは私が「ゲーム=悪」のような思い込みがあっただけで。
息子は数あるゲームの中から、音楽もデザインもストーリーが好みのものを選び出し、吸収しながら、目標に向かって頑張る作業をしているんだ、という目で見られるようになってきました。
本を読むように、ゲームのストーリーを楽しむのもいいんじゃないの?
どうして本ならよくて、ゲームはダメという価値観を持ってしまったのだろう?
息子のゲームを肯定できるようになったら、ずいぶんと楽になりました。
それぞれのやりたいことを尊重できるようになって、コミュニケーションが密になったような気がしています。
子どもは育っていく
人は皆、それぞれ異なるエネルギーをもって生まれてきています。
親子でも、きょうだいでも違います。
皆が違うから、全体でバランスが取れているのです。
それはインドの伝統医学・アーユルヴェーダでも言われていること。
受精した時に授かったオリジナルのエネルギーを、どう使っていくか。
どんなことに生かせるか。
どんな人と繋がることができるか。
どんな循環が生まれるか。
私と息子ではもちろん異なるし、だからこそ、これからお互い楽しみだなぁと思います。
家族だから知ることのできる、素敵な息子の世界を見せてもらえる幸せを思うとワクワクします。
最近「子育て」ではなく「子育ち」という言葉を知りました。
子は育てるのではなくて、育つんですね…確かに( *´艸`)
【関連記事】「大人ぶらなくていい」を実践した時のお話はこちら。
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